Browsing: パリのカフェ文化

サン=ジェルマン・デ・プレ教会に面したカフェ・ドゥ・マゴのテラスは、天気のいい日に沢山の観光客を惹きつけており観光客が70%、30%が常連客という構成になっている。1885年創業のカフェ、ドゥ・マゴは、1919年からオーベルニュ地方出身のマティヴァ一家のものになり、装飾は昔から何ひとつ変わらない。数々の文人たちが使用した赤いレザークロスの長椅子やマホガニーのテーブルは、時を越えてなお健在だ。黒と白の制服を着たギャルソンたちも、この歴史的な場所の装飾の一部となっている。  ドゥ・マゴという店名は、中国の高官で、現在でも店内に冷静なまなざしを注いでいる2体の人形に由来する。「マゴ」というのはずんぐりした陶製人形のことで、「ドゥ」は2つという意味だ。この2体の人形は、1885年にこの店がカフェになる以前、高級絹織物店だった時代から唯一残る面影なのだ。ヴェルレーヌ、ランボーやマラヌメたちはここで落ち合い、テラスでアプサンを飲んでいた。  ドゥ・マゴが気高い文学を受け入れ、芸術家たちや左翼知識人たちのたまり場となってゆくのは、1920年代になってから。1925年にはアンドレ・ブルトンや友人のシュールレアリストであるルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、ロベール・デスノス、アントナン・アルトーなどが定期的にここで会っていた。  第二次世界大戦のきざしが見えたころ、ドゥ・マゴは人々が政治的な議論をしに来る場所となる。パリ解放の頃には、サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールを筆頭とする実存主義者達はここを根城にしていた。彼らはそれぞれ好みのテーブルを持ち、休むことなく毎日そこに執筆しに来ていた。ボリス・ヴィアンやアルベール・カミュともつながりっていき、やがてサン=ジェルマン・デ・プレ神話が生まれるように。ジェームス・ジョイスやベルトール・ブレヒトやシュテファン・ツヴァイク、ピカソやヘミングウェイなど小説家や芸術家たちもここで落ち合った。  今日では人々はドゥ・マゴに古くから伝わる絶品のショコラを飲みに、またポットサービスのコーヒーをゆっくり飲みに来てはいるものの、主な目的となっているのは、見ることと見られることだ。ドゥ・マゴの椅子に座ると、芸術や文学、モード、演劇や政治の世界にいる人物を垣間見れることができるのだから。ドゥ・マゴ自体は、何よりもまず文学カフェでありたいと願っている。世界的な行事である「読書の祭典」の日には、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの文章が店内の、かつて彼女がサルトルとともに書くために座りに来ていた席で読まれていた。…

リップはフランスの歴史に名を残したブラッセリーです。 ここはパリジャンにとっても観光客と同じく神話的な場所なのです。 リップはサンジェルマン・デ・プレが思想と政治の中心地だった 20世紀の証人です。巨大資本に統合されたとはいえ、リップは今日でも パリのブラッセリーのシンボルです。今日でも、フランス人は、大臣か…

パリジャン達の芸術的、知的生活の中心地だったクローズリー・デ・リラ  19世紀後半、印象派のクロード・モネ、フレデリック・バジル、オーギュス ト・ルノワールたちはモンマルトルに溢れかえった人たちに嫌気がさして、原点にたち帰ろうと、この場所にやってきました。クローズリー・デ・リラのテラス は、ライラックの木々に囲まれていたため、木陰ができて非常に心地よかったのです。ここはパリ=オルレアン街道に面していて、乗り合い馬車の宿場としても 機能していました。クローズリーの主人は通りすがりの旅行者たちに部屋を貸していました。詩人のボードレールとヴェルレーヌはここで心地よい時を過ごして…

ルイ14世の時代、シシリア人のフランセスコ・プロコピオは宮廷の貴族と才人たちのための場所をつくりたいと思ってい ました。そして彼は、カフェ・プロコープを1674年にトゥルノン通りに開き、その後アンシャン・コメディ通りに店を移転させました。この店では、赤ワイ ンではなくコーヒーが出され、さらにコーヒーが客達の精神を覚醒させ、会話の技術を非常に高い所まで磨きあげていったのです。  1670年代頃には、イエメンから伝わったコーヒーは、ヨーロッパの大都市のベネ チアやロンドン、ウィーンなどに姿を現しました。もちろん、パリも同様で、まずエリートたちによってコーヒーの飲み方が発展させられ、それに伴って、コー…