1939年から1983年までカフェ・ド・フロールの主人をしていたポール・ブバル(1908~1988)の孫である、クリストフ・ブバル氏へのインタビュー。
彼は2004年11月に”Cafe de Flore, l’esprit d’un siecle”(邦題『カフェ・ド・フロールの黄金時代 よみがえるパリの一世紀』)という私的な作品を出版した。それは世界で一番有名なカフェの1つ、 フロールの主人へのオマージュというかたちだった。
―50年代から60年代の間つづいたフロールへの熱狂についてどうしたら説明できるでしょうか?
―フロールがエリートの特権的な場所になったのは、私の祖父のポール・ブバルがカ フェと一体となっていたからです。フロールは、彼の人生における情熱でした。ブバルは、マルセラン・カゼズがブラッスリー・リップを彼の好みにしていった ように、フロールを人格化していったのです。ブバルは彼のカフェのために生きていました。彼はカフェの正面に住み、家にいるときはカフェを双眼鏡で見張っ ていたのです。
―とはいえ、フロールの黄金時代について書かれていることは、同時代のリップを描写するのにも使えるのではなかったでしょうか?というのも、彼らはしばしば同じ顧客をもっていませんでしたか?
―この本に書かれているもの全ては、私がとても親しかった祖父や母や父から受け継い でいるものです。これはサン=ジェルマン=デ=プレの3つのカフェを対立させるためのものではありません。ドゥ・マゴはフロールよりも人が通る場所だった といわれていますし、リップはカフェというよりはむしろレストランでした。カフェ・ド・フロールには、ワーキンググループがあったし、場所はより小さく、 ちぢこまっていました。フロールは不変の存在感を人に与えていました。
私の祖父がカフェ・ド・フロールを買い取った時、彼は31歳でした。つまり彼は有名な顧客たち皆と同じ世代だったので す。それが彼のまわりに、他の人達よりもおそらく強く、プレヴェールやヴィアンやサルトルとの共感によるつながりを築いていった理由だろうと思います。彼 はいつも彼らにサービスしていました。彼は全ての顧客が心地よく感じられるように接していました。彼は家族のためのお金のすぐそばにいたので、顧客にお金 を貸してあげることで有名でした。
―フロールの評判はまさに占領時代に急にのびていきました。フロールは対独協力のカフェだったとは本当に言えないのでしょうか?
―パリ占領下では、フロールは消極的レジスタンスの拠点として名を知られていまし た。ドイツ人が一人入って来ると、客たちは沈黙し、彼はすぐに自分が歓迎されざる客だということに気がつくのです。私の祖父はドイツ人たちが嫌いでした。 ある日、その頃まだ小さな少女だった私の母が、ナチス親衛隊の一人がトイレに行こうとするのを止めたことがありました。そのドイツ人が理由を聞くと、母は こう答えたそうです。「ドイツ人には禁止されてるのよ。だってドイツ人は意地悪だから。」しかしながら、それに続く何週間か、わたしの祖父(上にジュリ エット・グレコとの写真がありますが)は召喚されないかとおびえていたそうです。
―どのようにして、ブーニャのブバルの孫であるあなたは小説家になったのですか?
―私は母と同様に、商業には全く向いていませんでした。このことが祖父を失望させま した。しかし、私が小説家になったのもまた、多分フロールのせいなのです。ある日私の父が、まだフロールの支配人になる前のことで、教員をしていた時に、 ロラン・バルトに私が手書きした原稿の1つを見せたのです。そして、ロラン・バルトがこの道を深く追求していくように勧めてくれたのでした。
―今日のパリのカフェには何が残っていると思いますか?
―私はもうカフェを愛するのをやめようと思っています。カフェは現在衰退期にあると 認識しなければなりません。カフェというのは民主主義の鏡であり、民主主義が病におちいっているときは、カフェもまた衰えていくのです。カフェがあったは ずの場所が銀行の支店や洋服店に変わってゆくのはおそらく偶然ではないでしょう。カフェが消えてゆくのは、社会的なつながりが消えていっているからです。
―今日のフロールはどうですか?
―フロールは忠実な常連客たちのお陰で、いまだに現実の詩的世界を形作っていま。私 は2ヶ月に1回はフロールに立ち寄っています。ここはエリートたちを今でも引き寄せています。値段が高いというのは本当ですが、ここにはブランドと歴史、 質の高い製品と独自のサービスがあるのです。
クリストフ・デュラン=ブバル
Cafe de Flore, l’esprit d’un siecle(邦題『カフェ・ド・フロールの黄金時代 よみがえるパリの一世紀』 中央公論社)Laore Litterature