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リップの長い物語 Le café Lipp

リップはフランスの歴史に名を残したブラッセリーです。
ここはパリジャンにとっても観光客と同じく神話的な場所なのです。
リップはサンジェルマン・デ・プレが思想と政治の中心地だった
20世紀の証人です。巨大資本に統合されたとはいえ、リップは今日でも
パリのブラッセリーのシンボルです。今日でも、フランス人は、大臣か
スターに確実に出会えるだろうと思ってこの店に足を運びます。
いくつもの政府がリップでつくられ、また敗れていきました。
リップの輝かしい運命は、50年間ここの主人だったマルセラン・カゼスと
ロジェ・カゼスという人物がいなければありえなかったでしょう。何年もの間、
昼も夜も、政治家達は主人の許可が出るまで店の外で立って待っていたのです。

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ウェプレールやゼイヤーのような同郷人たちと同じく、レオナルド・リップは1870年の普仏戦争の翌日からカイザーのもとで、また失われたアルザス・

ロレーヌで生きることができませんでした。

 そういうわけで彼はパリに移住し、1880年にサンジェルマン大通り151番地に
彼の生まれ故郷に対するノスタルジーから、「ライン川岸のブラッスリー」と
名付けた店を開いたのです。

 シュークルートとビールというメニューによって、25年もの間、リップ氏は
このブラッセリーを評判ある店に仕立てていきました。

1918年にマルセラン・カゼス氏がこの事業を譲り受けた時、ここはもう 「ライン
川岸」とは呼ばれず、「ブラッセリー・リップ」と呼ばれるようになりました。

 マルセラン・カゼスは19世紀にパリに上京していったアヴェイロネたちの
運命を他の誰にもまして象徴しています。彼らはオーブラックの数ヘクタールの
狭い土地で生きていかなければならないため、兄弟間で起こる数多くの争い
によって行き詰まった未来から逃れようとしてパリへ移住してきたのです。
マルセラン・カゼス自身も、1888年にラギヨールで8人兄弟の家族に
生まれた者の一人です。

 14歳の時に彼はパリに上京しました。モンマルトルに先に住んでいた
彼の兄弟である“ブーニャ”(オーベルニュ地方出身者、アベイロン地方
出身者たちはパリでこう呼ばれていたのです)が彼の受け入れ先になりました。
多くの同郷人同様、彼もまず木炭を運び、次にお風呂の水運び人という、
オーベルニャが得意とする仕事につきました。水運び人はまず浴槽を持って
アパルトマンの階段を上がり、次に浴槽を一杯にするため、煮えたぎったお湯を
桶にいれて運ぶのです。そして、最後に浴槽を空にしなければいけません。
もちろん、チップが欲しいのであれば、水を一滴も床にこぼさずに
全てを行わなければならないのです…。

 マルセラン・カゼスは最終的にカフェの世界に入ります。
まずポワソニエール大通りのカフェの、午前中の店内担当のギャルソンに
なりました。それから3年後、彼はフォーブール・モンマルトルのカフェで
ギャルソンになりました。彼はお皿やビンを運び続けて1日に16時間働きました。
数スーのチップが日に日に積もり、マルセラン初の事業の資本となっていきます。

 彼は妻とともに経営する初の店をバスチーユ付近のヴォルテール大通りに
購入します。次に、彼は中央市場のあったアル地区に移ります。
しかし突如第一次世界大戦が勃発してしまうのです。大戦で二度も負傷した
マルセランが再びパリに帰って来たのは奇跡的なことでした。1920年、
32歳のマルセランは以前の事業を再開することだけを夢みていました。
彼は莫大な借金をして、より美しい店をサンジェルマン・デ・プレで開くために
セーヌ川を越えていきました。次の店はテーブルが10しかなく、美しい
タイル貼りの壁のある店でした。それがブラッセリー・リップだったのです。

 リップでは彼の妻が厨房を担当しました。この店は美味しいシュークルートと
数々のアルザス料理で有名でした。うまくいっているメニューを変更することなど
問題外でした。マルセランの方は雰囲気を保つように心掛けました。彼は人物を、
特にお得意客たちを厳格に選んでいきました。それができたのも、明らかに
この界隈だったからなのです。例えば、リップのすぐ近くのビューコロンビエ座の
一座は、フランス人の有名俳優ルイ・ジュヴェと共に毎晩リップに通っていました。
1925年には、マルセランは店の面積を倍にしました。それでもこの場所に
増え続ける常連客に応じるには大きすぎるということはありません。

 ここでは俳優たちだけでなく、1933年に『人間の条件』でゴンクール賞を受賞し、
受賞をリップで祝ったアンドレ・マルローと再会した飛行士サン=テグジュペリ
のような小説家たちを目撃することができました。政治家たち、特に異なる政府の
大臣たちもまたここの常連でした。例え彼らの食べているシュークルートが
同じ鍋でつくられたにせよ、右派も左派も、彼らは互いのまなざしを疑わしいもの
とみなしていたのです。マルセラン・カゼスは満足してもみ手をしてました。
というのも、彼の店の、正気を失わせるような料理と、次々と飲みかわされる
シードルやビールによって彼らは満腹になっていたからです。

1934年に、リップの常連客の一人が、今日まで続いている
カゼス賞の創設を提案しました。これがカフェ初の文学賞でした。

 第二次世界大戦中のドイツの占領下では、リップはナチス親衛隊の士官や、
フランスのゲシュタポ隊員、ユダヤ人の財産を略奪して富を得た密売者たちが
通う店になることもできたでしょう。しかし、実際には主人は彼らに
協力することを拒否した小説家たちにビールを注いでいたのです。
パリ解放の日には、カゼスは彼の客たちにシャンパンをふるまいました。
その何日か後にアメリカ軍の従軍記者がこのブラッセリーに大喜びで
やってきました。それは幸せそうなマルセラン・カゼスにコニャックの
ビンを一杯にされているアーネスト・ヘミングウェイの姿でした。

1950年代には、ロジェ・カゼスが父、マルセランの跡を継ぎました。
当時はリップ議会の栄光の時代。この時代の政党としては、人民共和派、
急進社会党、社会党の議員たちがこの場を共に利用していました。時折、
店内の静けさを取り戻すためにマルセランは鐘を鳴らすことさえあったのです。

 その鐘は1981年5月10日の晩、フランソワ・ミッテランの当選の日に
再び登場しました。この晩、リップは政治家たちのうっぷん晴らしの
会場と化しました。政治の世界で有名な人物が入って来るたびに、
彼が属する政党によって、一つの党派が拍手喝采するかと思えば、
また一つの党派はののしるのでした。

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