今日のパスティスと同様な地位の、フランスの国民的飲料になる前は、
アプサントはスイスでつくられたセラピー用の治療薬でした。
1797年にスイスで軍医のドゥビッドがアプサントをベースにした処方箋を
購入しました。ドゥビッドは彼の娘むこだったアンリ・ルイ・ペルノーと
協力して、スイスに蒸留酒工場を開きます。フェンネルやヒソップ、
アニスやメリッサなどがアプサントの葉に混ぜられました。
こうして食前酒としてのアプサントが生まれることになったのです。
それからアンリ・ルイ・ペルノーは共同経営者とスイスから
離れることを決めました。1805年に、フランスのジュラ山脈にある
ポンタリエに、ペルノー・フィスという会社名で、フランス初の
アプサントの蒸留酒工場を作りました。2つの蒸留機は、1日に
16リットルのアプサントを作っていました。1880年には1日に
450リットルになり、1900年にはなんと、1日に2万5千リットルもの
アプサントが、工場から出荷されることになったのです。
今日アプサントの美術館が存在しているポンタリエは、アプサントの
象徴的な街になりました。1826年には4つだった蒸留酒工場が、
1905年には街中で20以上も存在するようになりました。
3千人以上の人がこの飲み物のために働き、1000万リットルが
世界に配達されていました。というのも、1850年からアプサントは
栄光の時代を迎えることになったからです。アルジェリア戦争の間、
北アフリカに向かう船の船倉は、アプサントで溢れていました。
「緑の妖精」の黄金時代は、1880年から1910年。というのも、
アプサントの値段がワインよりも低くなったからなのです。
こうしてアプサントはビストロやカフェを侵略していきました。