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アプサントの禁止 l’interdiction

「緑の妖精」だったアプサントは、次第に「緑の脅威」になってきました。

1905年に、スイスの農民が、たったグラス2杯のアプサントを飲んだ後で、
彼の2人の娘と、妊娠している彼女の妻を殺すという事件が起きたのです。
禁酒同盟はこれを機に、アプサント反対の訴訟を起こしていきました。
こうしてアプサント反対のポスターが、スイスとフランス中に
貼られていくことになりました。
人々はチュヨンという、アプサントの成分の中に含まれている
有毒物質について非難しました。「緑の妖精」や「緑の目をした
霊感を与える女神」と言われていたアプサントは、人殺しとか、
気力のなくなった、悲惨な労働者のイメージで終わりを告げたのです。

absinthe_suppression
火あぶりにされた女性の絵は、 アプサントの廃止をほのめかす絵になっています。

 

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1907年から、庶民の間の貧困とアルコール依存症の問題について、

議会で論じられるようになりました。彼らはアルコール依存症を
悪化させる印のアプサンティスムについて論じていました。
医学アカデミーや、「ル・マタン」紙を筆頭とする国の新聞、禁酒同盟などは、
アプサントの有毒性を宣告するためにやっきとなりました。
そしてアプサントの禁止を強く求めていくのです。1906年には、
パリのエッフェル塔前で、アプサントの競争に特に苦しめられてきた、
南フランスのワイン用ブドウ農家たちが動員されて大規模なデモをしました。
40万人もの人たちが請願書にサインをしました。ついに、1905年にはベルギーで、
アプサントの製造と販売が禁止され、スイスでは1910年に、アメリカでは
1912年に禁止されました。

パリのいくつかのカフェ、 主にバスチーユ近辺では、アプサントを飲むことが可能です。

フランスでは、1915年3月の法律により、アプサントが小売りも
卸売りも禁止され、フランスでの製造が禁止されました。
1920年代になってようやく、他の蒸留酒の製造業者たちの訴えにより、
政府はアプサント抜きで有害物質を取り除いた、アニス入りの新しい
飲料の製造を許可することになったのです。

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