毎晩18時頃になると、モンマルトルやカルチェ・ラタンの大通りのテラスでは「緑の時」が訪れる。1880年に旅してみよう。老若男女の関係なく、大がかりなカフェの洒落た社交場から労働者のカフェに至るまで、アプサンの習慣は幾千ものフランスのカフェにおいて一般化していたのである。
アプサンをよりよく味わうためには、フランス人がベル・エポックの時代に喜んで熱中していた独自のいれ方 に従わなくてはならない。まず、定量のアプサンを脚付きのグラスにいれ、給水所の先端の下におく。一度口が開くと、きめ細かく作られた銀の特別なスプーン の中にいれられて、グラスの上に前もって置かれた砂糖の上に、蛇口からちょろちょろと冷水が流れ出す。こうして水はゆっくりとこの飲物の上に砂糖を溶か し、植物の苦い味を和らげる。

アプサンの流行は、アルジェリアを征服しにいった兵士たちによってもたらされたものである。アプサンはもともと、植民地にいる白人や兵士達をチフスやマラリアから治療する目的で使われていたものだった。
フランスに帰還すると、在アフリカフランス懲治隊の士官たちは、グラン・ブルヴァールのカフェのテラスでアプサンのグラスを手にして見せびらかし、アプサンを流行させていった。通りがかりの人達は、この未知なる冷たくて苦い飲物を見て不思議がっていた。
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ナポレオン3世の統治下のはじめごろ、つまり1870年までは、この独特な味でハッキリした特徴をもった飲物を好ん でいたのは、主にブルジョワジーだった。高価な飲物だったので、必然的にアプサンはパリジャンの盛大な夕食会か、流行しているブルジョワのカフェで食前酒 として飲まれていた。
陶然とさせる力があるので(というのも、なんといっても70度近くに蒸留されてい るわけだから)アプサンはベル・エポックのパリのほとんど全ての知的、芸術的な集まりで強く勧められていった。画家や小説家や芸術家たちはアプサンを次々 と飲みながらインスピレーションを探していた。
マルトゥリス、ラット・モールやシャ・ノワールはじめ、モンマルトルのカフェでは、このモダンで刺激的な飲物は印象派 のドガやマネ、ゴッホ、ゴーギャンたちの気を動転させる、かつ魅惑していった。ゴーギャンは叫ぶことはしなかった。「私はドアのところに腰を掛け、煙草を くゆらし、アプサンをちびちび飲みながら、残りの世界を気にかけることもなく日々を尊重している。」画家達は皆、彼に何枚かの絵を捧げた。
ニコール・キッドマンが演じている映画、ムーラン・ルージュの世界は現実からほど 遠いものではない。モンマルトルにいたトゥルーズ・ロートレックは1889年に、若い娘達の顔を赤らめるカクテル、「サヴァン・メランジュ」を開発した。 これは爆発的なアプサン、マンダリン、赤ワイン、極上のブランデーとシャンパンでつくったカクテルである。
アプサンは同様に、オスカー・ワイルドやランボー、ボードレール、ジェームス・ ジョイス、ヘミングウェイ、エドガー・ポーなど青い目の小説家たちに霊感を与える存在となった。オスカー・ワイルドは、アプサンのことを「ザ・グリーン・ フェアリー」、つまり緑の妖精と命名し、「アプサンは物事を忘れさせてくれるが、その後頭痛の報いも受けることになる。1杯目のアプサンは、物事を見たい ように見させてくれる。2杯目ではそれがありえない様子で示される。3杯目以降になると、それを真の姿で見ることができる。」と証言している。
カフェやビストロ、キャバレーの発展とともに、アプサンは非常に早く大衆化され、アプサンの値段がワインよりも安くなった1880年には国民的飲料になった。
しかし、アプサンに含まれているティヨンヌが、感覚を興奮させ、精神錯乱を引き起こすと言われはじめた。こうしてアプ サンは19世紀末の労働者階級の人々のアルコール中毒の主な原因として責め立てられることになる。そしてこの飲物は1915年には製造と販売が禁止された のである。
1988年からは、ティヨンヌの使用を10%以下にしたアプサンベースのスピリッツの製造が認められた。今日ではアプサンがパリのいくつかのカフェで、再び姿を現している。